Piacharm
Music Museum®

~再誕~

「再誕」について

今回のPiacharm Music Museum®では、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの人生を辿ってみたいと思います。

今の時代においてその名を知らぬ者はいないと言えるほど有名な作曲家であるベートーヴェンですが、それは、彼が生きた18世紀〜19世紀のウィーンにおいても同じでした。多くの人がベートーヴェンに夢中になり、偉大なるモーツァルトの再来として崇めていました。

しかしながら、そんなベートーヴェンの人生は周囲が考えるほど順風満帆なものではありませんでした。

音楽家としての栄光を捨てるしかないという状況にまで陥り、死を意識するほどの絶望を味わったベートーヴェン。
そんな苦しみの中、ある発見をすることで、もう一度、音楽家としての人生を取り戻すことになります。それも、過去以上の栄光を手にすることになるのです。

ベートーヴェンは苦しみの中で何に気が付き、そして、どんな決意をしたのか。

ベートーヴェンの作った音楽と共にお楽しみいただけますと幸いです。

プログラム

  1. ピアノソナタ第14番 嬰ハ短調 作品27-2「月光」/ベートーヴェン

  2. ピアノソナタ第17番 ニ短調 作品31-2「テンペスト」/ベートーヴェン

「歴史探索のためのキーワード」

1.ハイリゲンシュタットの遺書

ベートーヴェンの死後発見された手紙であり、1802年にベートーヴェンが家族に向けて書いたものである。
遺書と名がつけられているが、これから死ぬ、ということを記した手紙ではなく、ベートーヴェンの当時の心情に加え、万が一死んだ場合の財産の取扱いなどが書かれている。

この手紙の中では、与えられた芸術の才能をベートーヴェンがどのように感じているのか、難聴という現実に直面した時、どれほど自分や創造主に絶望したか、それでも芸術という才能が与えられた以上、どれだけ悲惨な人生だとしても生き続けるしかない、といった当時のベートーヴェンの心情が書かれている。

2.難聴

ベートーヴェンが友人に書いた手紙によると、彼が難聴に気が付き始めたのは、1798年頃、つまりベートーヴェンが28歳の頃のようである。
手紙の差し出し日が1801年6月であったことから、約3年もの間、誰にも病気について語らず、その事実を隠し通していたことになる。

その名を知らぬ者はいないと言っても過言ではないほど有名な音楽家であったベートーヴェンにとって、難聴という病状はどうしても隠し通したい事実であった。パトロンである貴族達はもちろん、音楽関係者やライバル達、誰の耳に入っても、即ウィーン中の噂となり、最悪の場合、自分の音楽家としての生活が成り立たなくなっていたであろう。

ベートーヴェンに対する当時の人々の印象の中には、明るく活発な人間であった、というのもあれば、逆に陰気で人当たりの悪い人間であった、というのもあった。 本来のベートーヴェンは自信に満ち溢れた才能豊かな青年であったが、病気を機に人目を避け、例え人に接することがあったとしても難聴であることを隠すために横暴な態度を取っていた、という所があったようである。

3.スケッチ帳の存在

1802年以降のベートーヴェンの作品を見てみると、作品の中で繰り返し、もしくは作品同士に共通して用いられている、ある特定の「構成要素」を見つけることができる。 その構成要素自体はシンプルなものだが、音やリズムを変えながら繰り返し用いることで、作品に表情を持たせていることがわかる。

これらの構成要素の多くはベートーヴェンが書いたスケッチ帳に残されている。 1802年に使用していたと思われるスケッチ帳は2冊あり、それぞれ『ケスラー』スケッチ帳 (1801年12月頃-1802年6/7月頃) と『ヴィエリゴルスキー』スケッチ帳 (1802年秋-1803年5月) である。

4.1802年のスケッチ帳に残された曲

『ケスラー』スケッチ帳
 ・《ヴァイオリンソナタ第6番 A dur》Op.30-1
 ・《ヴァイオリンソナタ第7番 cmoll》Op.30.2
 ・《ヴァイオリンソナタ第8番 G dur》Op.30-3
 ・《ピアノソナタ第16番 G dur》Op31-1
 ・《ピアノソナタ第17番 d moll》Op.31-2(テンペスト)
 ・《7つのバガテル》Op.33
 ・《6つの変奏曲》Op.34
 ・《エロイカ変奏曲》Op.35

『ヴィエリゴルスキー』スケッチ帳
 ・《ピアノソナタ第18番Es dur 》Op.31-3
 ・《6つの変奏曲》Op.34
 ・《ヴァイオリンソナタ第9番 A dur》「クロイツェル」Op.47